2009年10月21日掲載記事

誰が国境を引いたのか?
 今回のサイトTOP画像になる地球の絵を見つめ――こんなことを考えていました。

 「一体誰が、国境なんて引いたのだろう」――と。

 私が「地球」を生まれて初めて見たのは、1977年に開催された「宇宙博」の会場でした。幼少期から私の家には地球儀があったので、地球儀そのものには慣れ親しんでいたものの、「本物の地球の写真」を見たのは、その時が初めてだったのです。
 その衝撃と感動と言ったら――何て表現すればいいのか……筆舌し難いです。ただ、感動と同時に一種の「違和感」があったのは事実です。「あれ……? 地球儀と、何か違う」と。
 地球儀には、最初から「国境のライン」が書かれています。その他にも、何だかんだといっぱい線が引かれていますよね?

 でも、本当の地球に「そんなものは『ない』」のです。
 一体誰が、国境なんてラインを引いたのでしょう?

 そう言えば――以前、こんな話を聞いたことがありました。
 アメリカ大陸が発見されスペイン人達が訪れた際、元々住んでいたネイティブアメリカンの酋長にこう相談を持ちかけたそうです。
「『この土地の一部』を、我々に売ってくれないか?」
 しかし、酋長は「その意味」が分かりませんでした。

「大地は『ひとつ』だ。ひとつのものを、分けることなど出来ない」

 私はこの話を聞いた瞬間、「自分達の歴史が、何を履き違えて来たのか」を痛感したような気がしました。
 国境も、海里も、そんなものは最初から存在しなくて、私達人間が「勝手に決めただけ」なのです。土地売買を持ちかけられた部族の酋長はそれを「深く認識していた」からこそ、その買収に応じなかったのでしょう。
 先日話した、人種の差と同じですよね。肌の色の違いはあくまでも「違い」でしかなく、そこに優劣なんか存在しない。もともと、私達は人類という「ひとつの種」なのだから。
 
 国だって、同じことです。
 確かに、高次にも目的意識に応じた共同体は存在します。しかし、そこに優劣もなければ、「ここから先入るには、通行許可証が必要だ」なんて、そんなことはありません。秩序は「外的に束縛されるべきもの」ではなく、「内的から自発的に発せられるべきもの」だからです。わざわざ通行許可証なんてものを造らなくても、内的秩序に基づき行動すれば、犯罪云々だの必要以上の防衛だのは「必要なくなる」からです。
 もし、人類がそうなれるのであれば――私達に「国境」そのものも、必要なくなるのではないでしょうか? 地球儀に意味のないラインが引かれることなんてなくなり、アフリカ大陸にもまるで「定規で引かれた」かのような国境はなくなり、ひとつの惑星「地球国家」として、みなで手を取り合える日が来るのではないでしょうか?

 一体、私達に根付く「何」が、このような問題を引き起こすのでしょう?
 それはやはり、外的規範ばかりに振り回された「利己(エゴ)」がそうさせているのだろう――そう思います。
 私達は「自分」を省みることなく、あまりにも「外」からの締め付けに無防備でした。法律、規律、為政者達の押し付け――そうしたものに、あまりにも無頓着で、自分たちの力で考えようとして来ませんでした。
 でも本来、私達ひとりひとりには、「何が正しいのか」を察するだけの洞察力が「眠っているはず」なのです。私達のDNAが「生存」の為に何が必要で何が不必要かを分別出来る能力があるのと同じように、私達個々人も、「何が私達の未来において必要で、何が不必要か」それを選別出来る力が「必ずあるはず」です。だからこそ、今や時代はこれほどまでに「精神論」を重要視し、「資本主義的物質価値」に疑義を投げかけ、使い捨ての文化に疑問符を投じているのではないでしょうか?

 私達個々人がもっと「自分の本質」に立ち返り、そして、「個性は排斥や衝突を生まず、互いにその個性を活かして協力しあえるものなのだ」という視点を持ち、今立っているこの「大地」が――例にあげた酋長の言うように「ひとつなのだ」ということを思い出せたその日が来たら、私達はいつしか、「国境のない地球儀」を見ることが出来るようになるのかもしれません。