2009年10月16日掲載記事

階層世界が理想的世界であるというパラドックス
 さて、今回は「階層世界」について以前書いた記事をご紹介します。「階層」と聞くと、あまりいい印象を受けない人が多いかもしれません。どこか「差別的なイメージ」がこの言葉の裏に隠されているような気がしてしまうからでしょう。
 しかし、本来「差」というのは「個性」であって、決して「優劣ではない」のです。「勝ち組」とか「負け組み」とか、とかくこの世は競争が大好きですが、勝つって何を指すのでしょう? 負けるって、何を指すのでしょうか?
 私は「成功哲学」に反旗を掲げる人ですが(成功哲学という概念そのものが、資本主義を基盤にしているからです)、いっぱいお金を稼いで、プール付きの豪邸に住んで、メイドをいっぱい雇って――でも、死んだ後に何を持って行けるのでしょう? 霊界で「俺はこれだけ世の中で成功していて、有名人で、新聞にもいっぱい掲載されて、めっちゃスゴイんだぞ〜!」と言っても通用しません。

 以前「体外離脱」の話の際に触れましたが、高次の尺度は「愛」であり「こころ」だからです。(※だから、どんなに教養があってもそれを愛やこころに結びつけて智慧に転換出来ていなければ、まったくの無意味でしかありません。)「死ぬ前、俺は会長だったんだ!」とふんぞり返っても、そこに「愛」も「こころ」もないどころか、現役時代同僚を蹴落としての出世だったり、心と裏腹に口裏だけ合わせる表面的な人だったり、家族・友人誰に対しても誠意を籠めたことがいっさいなければ、まったくもって霊界では「無価値」です。
 「こころの状態が、死んだ後の霊界に直結している」という話をこのブログでも書きましたが、例で挙げたような人が「天国と結びついている」とは、きっと誰も思わないことでしょう。(事実、そういう例((富める者が必ずしも天界に行けるわけではなく、あくまでも心根が重要だという例))はスウェデンボルグの著作に沢山記載されています。※参考までに、再度文献を下部に掲載します。)

 優劣の視点、勝ち負けの視点。
 そういった「外的価値観」に囚われている以上、私達は「本当の幸福」というものに至ることは出来ないでしょう。そういった外的価値観を超えて「自分の個性」というものに立ち返って初めて、人は「霊的成長の一段階」に至れるのかもしれません。

 ――って。少し話は逸れましたが。
 以下、過去記事「階層世界が理想的平等であるというパラドックス」について転載します。

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2008年1月6日 過去ブログ「思考世界」より転載

階層世界が理想的平等であるというパラドックス

 一口に「平等」と言っても、一体どういう状況を「本当の平等」というのか――掘り下げて議論されたことは未だかつてありません。
 それどころか、全てを横並びにさせて「はい、みんな一緒!」と、個性も何もかも打ち消すような平等を掲げて善人面する人達までいる始末。一時期言われた「一等賞もビリもない徒競走」ほど、子供達のやる気を削ぐものはないでしょう。
 本来であれば、「ビリが良くない」という発想ではなく、「ビリだってOK!」の視点に立てるような教育が必要なのではないでしょうか。ビリと言ったところで、ただ単に「5人走った中で、5番目だった」というだけの話ではないですか。「ビリ」だの「ブービー」だの「劣等意識を排斥しよう」とする視点そのものが「差別を助長させている」と、私は常々危惧しております。

 女性の権利についても同様です。
 男性、女性としての「肉体差」を弁えず、何でも「男女平等」とするのは、むしろ男女という個性を蔑ろにした言動であると、私はそう思っております。もし本当に「男女が平等」で、その役割や立場にも「差が生じない」というのであれば、何故わざわざ神は「男と女」を作ったというのでしょう。
 男と女に適した役割、働きがあるからこそ、必要性に応じて「性差」が出来たというのであれば、その差を考慮しない平等というのは、かえって男女の個性を踏みにじるものなのではないかと、私は思います。(注※同一性障害の人や同性愛者の方などは、この「男女の良さを踏みにじるケース」に値しません。むしろ逆に、彼ら彼女らは「肉体と霊性のギャップ」という、もっとも深い性の学びを経験している人達だからです。そういった深い事情を洞察せずに同性愛を頭から否定する人の方こそが、「男女という外枠だけに囚われている」、そう思えます。)
 戦後、やたらに平等が唱えられるようになったものの、それが「無闇矢鱈な権利の主張」に過ぎない気がして、私は怪訝視せずにいられません。

 かたや、霊界は「絶対的な階層世界」であるとされています。
 この件については以前このブログでも触れましたが、霊の質を「物質の元素」に置き換えればわかりやすいでしょう。善行や博愛、より神に近い思考形態の霊はその質も「軽く」なり、執着や欲、より物質的世界に近い思考形態の霊は「重くなる」と仮定した場合、そこには必然的に「分離」が生じます。
 そうやって、霊性の質によって何層もに分かれたのが「霊界」なのです。
 そこは絶対的な「差別」の世界ですが――しかし、物質界で言うような問題は起ころうはずもありません。
 何故なら、「そこに優劣が存在しない」からです。
 逆に言えば、一体「差別の何が悪いのか」。
 差別という言葉に特殊な感情を上乗せして、それを「悪」と判断するのは、あくまで人間の感情に過ぎません。
 ある人の肌が黒くて、ある人が黄色くて、ある人が白かったとして――その差は厳然としたものであるけれど、そこに優劣を持ち込んだのは誰でもない、「人間」です。
 差が「差」としてあるだけならば、それは「個性」と言えるもののはずです。
 いわば、霊界の階層世界は「霊の個性」とも置き換えることが出来るでしょう。そこに優劣を持ち込んだところで、何の意味もない。天上近くにいった温かい空気に向かって、床を流れる冷たい空気が「温かい空気が、俺達を見下している!」って言うようなものです。そんなことしたって、まるで意味がありません。

 とはいえ。
 スピリチュアリストの中でも「○○は魂のレベルが低い」「私は魂のレベルが高い」だの、ど〜でもいい会話をしている人達も少なくないという話を聞きます。
 本来のスピリチュアリストであれば、「階層は差でしかなく、優劣は存在しない」ことを重々承知しているはずです。もし、皆さんの周りで「あなたは魂のレベルが低いから〜」などと言ってる人を見受けたら、「あ、エセ・スピリチュアリスト発見」ぐらいに思って、聞き流してしまいましょう(爆)。

 霊界の階層は「絶対的差別世界」ですが、それはただ単に「棲み分け」でしかありません。
 むしろ、秩序だった形態を保とうとするならば、「差別」というのは避けて通れないものなのです。「神はひとつ」と言えど、それは「様々な働きをする個性をした霊の集合体」なのであって、「一色に統一されたものではない」。そこに「優劣」という物質界の特徴を持ち込めば、当然おかしなことになってしまいます。
 この現実の世界においても、「差は『個体差』でしかなく、そこに優劣はないのだ」という霊界の視点に立てるようになれば――理想的な社会が築けるのかもしれません。……が、そういう視点に人類が立てるようになるのは、果たしていつのことだろうと、そんなふうに思う今日この頃でありました。

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