2009年10月11日掲載記事

この世に「ユートピア」は実現出来るか?
 この記事は2009年に書かれたものですが、当時はまだイスラム国の脅威もなければ、シリアの紛争もない時期でした。たった7年という歳月の中で中東における変化がどれほど凄まじいものだったかを、改めて痛感します。
 ISの残虐な行為ばかりが報道されるため、イスラム教やアラブの人達を誤解している方も当時より多くなっている印象を受けますが、本来のイスラム教徒達はとても敬虔な上に友好的、かつ平等思想を持っているということを改めてこちらで述べさせて頂きます。
 ひとつの行為や角度で物事を決めてしまうのではなく、多角的、かつ、様々なものごとの良き点のみをつなぎ合わせていくことの大切さをお伝えするために、この記事を再度掲載します。

2016年12月20日記
 昨日、篠崎は「イスラム金融」の講演会に参加してきました。この概念は20世紀に入ってからのもので、また、日本で講演されるのも初めてという代物です。
 このイスラム銀行の大きな特徴は「利子がない」ということです。「不労所得」をコーランで禁じているが故に、銀行側が利子において儲けるという概念がないのです。勿論、そうである以上、債務者が「巨額な利子のみを払い続けなければならない」なんて問題もないですし、「借金に借金を重ね、利子が膨大に膨らむ」ということもありません。グレーゾーンは撤廃云々の問題以前に「存在しない」のです。
 イスラム文化圏というのは、本来非常に利他主義な文化なのです。昨今ではテロ事件や紛争が表立ってしまっているので、どうしても偏見が広がってしまっている印象を受けますが、そうした背景は宗教や思想とはほとんど関係なく、民族同士の衝突、政治的背景の思惑の方が影響していたりすることが多いです。

 私自身は今までずっと理想世界を探究してきましたが、やっぱりどうしたところで「人の意識改革」が推し進められないと本当の理想には到達出来ないだろう――そんなふうに感じています。私が見てきた高次の世界では「個性と全体の調和」が成立していましたが、ああいう世界に現レベルの人間が「ポン!」と放り込まれても、絶対にそこを「理想郷だとは思えないだろう」、そう感じるのです。

 現在、それをさらに掘り下げていく為に、草案を練っている最中です。こちらでも少しずつ発表していきますので――今回はそうした「ユートピア」に関する過去記事をご紹介致します。

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2008年1月30日 過去ブログ「思考世界」より転載

◆この世に「ユートピア」は実現出来るか?◆

 前回「霊界の階層世界は『理想的平等』である」を膨らませた続編です。

 90年代に入ってから、日本は少しずつですが「共生」という概念を意識するようになってきました。
 91年にバブル経済が崩壊し、それまでの物質至上主義が揺らぎ始め、真なる平和というものはどんなに目の前の暮らしを向上させたところで得られないという事実に多くの人が気付き始めたからなのかもしれません。
 しかし、本当にこの「共生」「地球全体における平和」というものが意識され始めたのは2000年に入ってから――9.11事件やイラク戦争などで「理不尽な生活環境を強いられている人は、世界中にたくさんいる」ということを、報道を通して多くの人の意識に浸透し始めたからなのではないかと、そのように私は考えています。(91年にもアメリカはイラクと戦争しておりますが、当時の日本はまだバブル経済の煽りを受けており、そこまでの着眼点に立てる人々自体が少なかったように思います。)
 その関係からか、インターネットにおける活動でも「世界を視野にいれたコミュニティ」や「平和活動」に関するコミュニティが数多く存在するようになりました。そういったコミュニティの存在は日本人の意識がよりグローバルへと向けられている証拠であり、(たとえそれが、まだ現状的には表層的なものであれ)喜ばしいことであると、私は思っております。

 とはいえ――。
 地球全体における「平和意識」はまだまだ黎明期であり、非常に危ういバランスに措かれていると言えるでしょう。
 時間をかけていくことにより解決する問題かもしれませんが、実際は「時間をかけただけでは必ずしも解決出来ず、そこに意識改革を併せ持つ必要があるだろう」と、私は考えています。

 そもそも、「孤立した国家としてではなく、全体を見つめた統制を成そう」と試みたのは、今に始まったことではありません。
 古代まで遡ればローマなども統制のひとつと言えるでしょうが、「独立した国家を維持したまま、全体を統制させる」という形で国際政治が誕生したのは、今から約三百年前のヨーロッパに端を発しています。
 当時、ヨーロッパは戦争に明け暮れてばかりいました。放置しておけばすぐに戦争を始めるような状況下の中で、様々な思想家達が「どうすれば平和な世になるだろうか」ということの模索を繰り返していたのです。
 そして三十年戦争の後に誕生したのが「ウエストファリア条約」です。
 しかしこれはあくまでも「戦争における外的処置」でしかなく、内的な和平を求めるようなものではありませんでした。言ってみれば、常に喧嘩ばかりしているご近所さん達に向かい、「この溝は○○さん宅の敷地内にある」「この柿の木は××さん宅のもの。しかし、こっちの壁から出ている柿については、△△さんが食べてもよし!」と、便宜上の決まりを定めたに過ぎないのです。
  
 国際政治とは、あくまで国家間における外交手段でしかないのか――或いは、各国という個体を包みこむ全体の統制という形で理想を追い求める方法なのか、未だ世界に結論は出ていません。

 ――と。
 ここまで読んで、皆様は「おいおい、どこにスピリチュアルが絡んで来るんだよ……」とお思いかもしれません。
 実は、私自身はこの「国際政治のあり方」そのものを、スピリチュアル的な視点で解釈することが可能なのではないか、そう思っているのです。
 いわば、前回書いた「霊界の階層世界」と同じです。
 人類が経てきた永い歴史の中で、幾たびも私達は同じ問題にぶち当たってきました。
 それは「本当の平和って、何だろう」ということです。
 これだけ価値観が多様化し、様々な文化、文明を目の当たりにしてきた私達は、今更ながら「すべてが統一されるのが理想的社会だ」などと、思ってはいないはずです。「ひとつの神」を崇め、「ひとつの文化」を営み、「ひとつの政党」に任せ、「ひとつの貨幣」だけを使い、「ひとつの幸福」だけを求める――そんなものが「ナンセンス」であることなど、誰もが知っています。(※もっとも、それは私達日本人における特殊性、とも言えるかもしれません。宗教がより深く浸透している国の人々からすれば、「ひとつの神」の方が当たり前かもしれないのです。そう思うと、私は「何ていい国に生まれたんだ!」と思わずにいられません。)
 勿論、どんなに多様化されていても「神はひとつだ」とされています。
真理においても同様です。
 しかし、それは断片的にしか見えない一部分を取り上げて「ひとつだ」と言っているのではなく、多様な側面すべてを併せもった上で「ひとつ」としているのです。同じ「ひとつ」という概念でも、前者と後者では雲泥の差です。
 前回あげた「霊界」においてもそうです。その階層は実に細かく分かれており、そこには明確なまでの差が存在します。しかし、その階層別々をとって「霊界」と呼ぶのではなく、それら「すべてをひっくるめて、ひとつの霊界」として存在するわけです。

 霊学を推奨し、生き方そのもので実践しようとしている私は、「霊界における真理を実践することこそが、人間社会にとっても自然体なのではないか」と、そう思っています。
 それはいわば「宇宙の流れに、社会全体が乗る」のと同義であると考えています。
 霊界が「細かな階層ごとに分かれており、その差が明確であるにも関わらずひとつの霊界として存在する」とのならば、人間の世界においても同様に「細かな国に分かれており、様々な文化、価値観、宗教概念が存在していても、『ひとつの国家』として成り立つことは可能」だろうと、私は思っています。
 そして、そういった「異なる種々の人々」を包括した中でバランスをとっていくことこそが国際政治の果たす大きな役割であり、それこそが「ユートピア」である――私はそう考えているのです。

 とはいえ。
 それを形として作り上げるのは大して難しくないかもしれませんが(国連という組織も、あるわけですし)、一番最優先されるのは「異なる種々の人々を互いに受容出来る程、人類の意識が改革されること」かもしれません。
 哀しいかな、未だ世の中は「自分と異なる人を排斥しよう」とする働きが強くあります。
 それは何も社会に限ったことではなく、身近な人間関係においてもそうでしょう。ちょっとでも自分と違う部分を相手の中に見つけると、それを自分の思い通りに変えようとしたり、相手の一側面を無視しようとしたりする人もかなりの数存在します。

 もしも本当に世の中の「ユートピア」を求めるのであれば、まず何よりも「異なる価値観を受容すること」――ここから始めなければならないでしょう。
 まだまだ、ユートピアへの道のりは遠そうです(笑)。

━━━━━━━━━━━(過去記事転載・以上)━━━━━━━━━━━━━━