2008年2月14日「思考世界」掲載記事

霊の自然進化は起こり得るか?
 昨日、メールフォームより「質問」を頂いたので、それについてコメントさせて頂きます。

 質問文を要約すると、「時代も変わり世界も変わるなら、救われない地上霊も自ずと進化するのではないか。そうすれば、いずれはすべてが光(浄化)になるのではないか」という内容です。
 それについて、以下のようにお答えします。

 「神秘学概論」宇宙紀の中に、「進化に遅れを取る霊がいた」という記述があります。(注※シュタイナーは「民族魂の使命」の中で「自らの進化を犠牲にした霊」の存在も説いています。そうした自己犠牲的霊とは別に――所謂「落第した霊」の存在を、この神秘学概論では示唆しています。)
 たとえば、土星紀における進化についていけなかった霊は、太陽紀において「土星紀の体験」を繰り返さねばなりません。もしさらに遅れをとって、時代は月紀に進んだにも関わらずまだ土星紀の進化しか経ていなかった場合、その霊は「土星紀→太陽紀→月紀」と、一時期に三段階の進化にチャレンジしなければならなくなります。(まるで大学の単位制度みたいなものですな。学年が進めば進む程、カリキュラムがきつくなる、みたいな((爆)))
 どんなに進化に遅れても、常に「昇級のチャンス(笑)」はあります。しかし、「遅れを取れば取る程、難易度も高くなってしまう」のです。
 よって、このご質問に対する解答としては「進化のチャンスは、常にあるでしょう。しかし、それは『自ずと』という安楽な道ではない」ということです。※だからといって、「遅れを取ると、チャンスが難しくなるんだ!」と怯える必要はありません。これは気が遠くなる程永い時間をかけての話ですし、普通に生きている人であれば、まず(というか、絶対に)問題ないはずです。
 以下、何度か抜粋したシュタイナーの「宇宙紀における未来予測」を、再度改めて引用します。

  後アトランティス期におけるギリシャ・ラテン文化期やそれに続く第五、第六、第七文化期を経験した魂だけが、新たに形成された地球状況に適応していくことができる。その魂は、それまでの諸状況に対応するすべを、身につけてきた。そうでない魂たちは、それ以上先へ進むことができないであろう。後アトランティス期の第五文化期から第六文化期への移行に際して、超感覚的な認識内容に知性の力と感情の力を浸透させた魂だけが、次の大変動後の状況に適応できるであろう。
 ここでシュタイナーも言うように、「対応するすべを身につけていない」場合には、第七文化期末におきる変容に、ついていけなくなってしまいます。(くどいようですが、この言葉だけに怯えないで下さいね。まだまだ数千年先の話ですので。)その上、そこで遅れをとってしまった場合、再度訪れる進化のチャンスは「遙か先になる」ともしています。
 そう考えるに、進化というものの背景には「自己の向上」というものが必ず必要で、自らが気づけない場合「先に進めない」ということになります。
 そうすると、結果的に「自ずと進化する」という見方は妥当と言えない――ということがおわかり頂けるかと思います。

 理論的な部分でお答えすると、こういう結果になりますが――さらに心情的な部分にも以下お答えします。
 この質問は、先日私が「高次と低次、両者を見る必要性」について書いた記事に対する意見(低次の存在も自然と進化するのだから、働きかけは必要じゃないのではないか?)が含まれていたようですが、個人的に「自ずと進化するのだから、何もする必要はない」という考え方――私は好きになれない考え方です。
 常にお腹を空かせ、日々生きることだけに精一杯になっているアフリカの子供達や、いつ隣人に殺されるかわからない恐怖を抱えながら生きる紛争の国の人々。生活保護と介護の二重苦にあいながら、必死に今日を堪え忍んでいるだろう人――そういった人々が仮にスピリチュアルというものに触れあうことなく、この世を恨んで亡くなったとしましょう。(おそらく、地上霊になったケースというのは「社会や時代」に犠牲にあって自我を掴めないまま亡くなった人が多いように思います。)
 そういう苦しみの中にいる霊達を――「自ずと進化するのだから、何もする必要はない」。
 そんなふうに思えますか?
 目の前で飢えて死んでいく子供がいたとして、その子を前にして「大丈夫! 死後の世界は、とっても素敵なところなの!」
 そう言って、ただ見守れますか?
 仮に「死後の世界が素晴らしい」――そう思えても、苦悩する存在を前に「何とかして、苦悩を取り除いてあげたい!」
 そう思うのが、人情というものではないでしょうか?

 私は何も「すべての人」に、高次と低次共に見よと、そう言っているのではありません。
 霊的成長には「段階」があります。低次の世界は、本当に「危険」な要素を感じます。だからこそ、「それに打ち勝てる存在」にしか、そこと触れあう機会は与えられないでしょうし、まだ向き合う強さがなければ、「あえて無理して向き合う必要はない」のです。

 神秘学(霊学)の道を進む際もっとも大切なことは、等身大の自分でいるということです。
 それは過大評価でもなければ、当然過小評価でもありません。その人にあった「霊的感受性」というものは、与えられた時点で自ずと「決まっている」のです。
 ですので、私が「思考世界」で述べたことすべてに「そうか! そうでなくちゃいけないんだ!」と反応する必要はまったくありませんし(私は一番最初に、「鵜呑みにしないで欲しい」ということを述べています)、ご自身にあった道を歩まれることが一番いいと思われます。
 それに実際、私のように考え、自らを神(霊界)の道具として捧げているチャネラーの存在も、私は知っています。
 そういった自覚ある人々が少しずつでも、低次と高次を繋ぐ道標となっていけばいい――私はそのように考えています。