2008年2月6日「思考世界」掲載記事

霊学的人間の考察(3)
 今回も前回の続きで、「アストラル体と自我について」を考察します。

◆アストラル体◆

 アストラル体は、よく「幽体」などという言い方もされています。ただ、言葉で理解してしまうよりは、その言葉が指し示す「本質」で理解した方がわかりやすいでしょう。
 著書「神智学」の中でシュタイナーは、人間を三つの本質に分けています。「体・魂・霊」という三元素ですが、アストラル体はこの「魂」の部分にあたります。(※前回説明しましたように、肉体はエーテル体を切り離しては存在し得ない為、この三元素は「体」の中に「肉体+エーテル体」が含まれているものと考えられます。)
 この「アストラル体」と「魂」が「同じ本性を示している」ということについては、「神秘学概論」の中でも示されています。

 眼の前の対象を意識化するのは、アストラル体の働きである。しかしその意識を永続的なものにするのは、魂なのである。しかし今述べたことからもすぐに分かるように、人間の中にはアストラル体と、意識を持続的なものにする働きとが、深く結びついている。したがってこの両者をも「アストラル体」と呼ぶことが出来る。
 また、魂もただ漠然とした塊なわけではなく、その作用によって三つの作用に分かれています。
 「感覚魂・悟性魂(或いは心情魂とも言うそうですが、ここでは悟性魂で統一します。)・意識魂」という三つの作用です。
 「感覚魂」というのは、いわゆる五感のようなものです。物質界の中に存在する上で感じる知覚のことを「感覚魂」と言っています。
 一方、この「悟性魂」というのは、魂が知覚された印象を受け取るだけでなく、それをさらに「意識上に働きかける」という作用をします。
 例をあげると――火のついたストーブに手を触れてしまい、「あちっっっっ!」という印象を感じるのは「感覚魂」の働きであり、その経験を踏まえて「もう絶っっっ対、触らね!」って思うのは「悟性魂」の働きというわけです。
 ちなみに、この両者には「記憶」の作用もあります。ですので、一度触れてしまった記憶をもとに、触らなくても「ストーブの熱さ」が感覚の中で再現されるし、また、「もう絶対触らねって、あの時思ったっけ」といった形でその時の気持ちも再現されるのです。
 ここまでですと、魂の働きはまだまだ外界(物質界)のみに支配されており、霊的作用としての思考などは絡んできません。そうした働きが見られるようになるのは、第三の本性である「意識魂」にあたります。

 人間は、みずからの内に、神的なものを見出すことができる。なぜなら、人間のもっとも根源的な存在部分は、神的なものからとってこられたのだから。このように人間は、みずからの中の神的なものを通して、魂の第三分肢を獲得する。アストラル体を通して、外的な意識を獲得するように、自我という、みずからの中の神的なものを通して、自分自身についての内的な意識を獲得する。それゆえ、神秘学は魂のこの第三分肢を「意識魂」と呼ぶ。
 上記抜粋したように、「意識魂」というのは先に挙げた「感覚魂」「悟性魂」と働きが大きく異なります。意識魂というのは、要は「外界と、私という存在の境界」を示すものでもあり、ここに人間の個性とも言うべき霊性が生じてきます。
 先の例を再び使いますと、熱いストーブを触って「あちっっっっ!」っていう印象を持つのは、まずすべての人に共通されたことでしょう。さらに「もう絶っっっ対、触らね!」っていうのも、多くの人に共通しているはずです。
 しかし、意識魂に生じる反応は、個々人で分かれます。例えば、「他の誰かがうっかり触って火傷しないよう、柵を作っておこう」という思いに至るかもしれないし、「この場所に置いておくと、食べ物が痛んじゃうかなぁ」なんて心配するかもしれないし、もしくは「触っても熱くないストーブを発明したい!」という発想に至るかもしれない。そこから先に生じる心の作用はその人独自のものであり、その人それぞれの自由なのです。
 外界に限定されず、「私」という領域で思考されること――これが「意識魂」というわけです。

 そうなってくると、魂の本領はほぼ「意識魂」に集約されている、とも言えるでしょう。
 第三の本性である意識は、もっとも霊界の作用を受けやすい箇所でもあります。こうしてみると私達は、外界から「感覚魂・悟性魂」を通じて受ける印象と霊界側からのインスピレーションを「意識魂」が受けることによって生じた思考の両者をうまく調和しながら「生きている」のだということが、何となくおわかり頂けるかと思います。
 そして、この第三の本性は、次なる要素である「自我」へと、切れ目なく繋がっていきます。

◆自我◆

 自我に対する考え方については、東洋哲学と西洋哲学においては大きく隔たりがあります。
 仏教を代表する東洋哲学において「自我」というのは妨げとなるものです。禅などにおいても「自我を徹底的に滅却していく」ことを目標にします。そして、それが取り払われた奥に光る「存在そのもの」こそに意味を見出すのです。(余談ですが、「空」というのは「無」と違います。よく多くの方が勘違いされてしまっているのですが、「空」というのは「いっさいがゼロ」というのではなく、「『何もない』というものが『ある』」状態なのです。……なんのこっちゃ、という感じではありますが――)
 一方、西洋哲学においては「自我」というものに徹底的に拘ります。デカルトの「我思う、故に我あり」もそうですし、パスカルの「人間は考える葦である」もそうですが、要は「思考する自我」というものを立脚点にして、神との繋がりを探ろうとするのが西洋哲学のスタンスなのです。
 東洋も西洋も、その意味においてベクトルは真逆の方向を向いています。しかし、方法論は違っても「行き着く先は同じ」なのです。地球を東に向かって開拓しても、西に向かって開拓しても、いずれ出会すのと似たような感覚かもしれません。

 多くの西洋哲学者が「自我」を追究したのと同じく、シュタイナーにおける「自我」も同じように重要な立脚地です。(ニューエイジとして東西の神秘思想が折衷してからは、どちらを選んでもあまり関係ないような状態になっています。でも、個人的に現代人は「自我の追究」から入った方がわかりやすいし、社会に適応しやすいのではないかと、そう思っています。)
 感覚魂や悟性魂から生じた印象に支配されるのではなく、人はこの「自我」によって完全にアストラル体を支配しなければならない――シュタイナーはそのようにも述べています。

 人間は、この作業を通して、一層高次の段階へ至る。それを通して、人間存在の新しい諸本性を生じさせる。今のところ、その新しい諸本性は、隠されたものとして、人間に開示されているものの背後に存在している。しかし人間は、自我による魂への働きかけによって、開示されている魂の中から、隠された魂を現出させることができる。人間は、アストラル体にまで自己の働きかけを拡大することができる。そして自我がアストラル体を支配し、みずからをアストラル体の隠された本性とひとつに結びつける。そのようにして自我に支配され、変化させられたアストラル体は「霊我」と呼ばれる。
 ここでいう自我を、「エゴ」とイコールにしてしまうのは誤りです。この自我は「私という存在の管理者」たるべき存在です。なので、今現在、私が――皆さんが感じている「自分自身」というのも、自我とイコールにはならないかもしれないのです。
 あえて言えば、「ハイユアーセルフ」と呼ばれるものとイコールかもしれません。
 いわゆる「高次元の自分」であり、「外界に纏わる欲望や衝動に惑わされていない状態の自分」と言うことも出来るでしょう。
 この「高貴な自我」に焦点を合わせ、アストラル体を完全に支配するようになることが理想であると、シュタイナーは言っているわけです。

◆アストラル体と自我の関連性◆

 ここでもう少し、アストラル体と自我について掘り下げてみましょう。
 シュタイナーは、肉体を「鉱物界」、エーテル体を「植物界」と共有しているように、アストラル体を「動物界」と共有しているとしています。
 先日、「生命がないのが鉱物」で、「意識がなく眠ったままの生命が植物」と申しましたが、これを動物に置き換えると「自我がなく、本能のまま生きるのが動物」と言い換えることが出来るでしょう。「自我」は、自然界において人間だけに与えられた特性なのです。
 また、アストラル体は「対象を記憶する」ことは出来ても、それを「統括する」ことが出来ません。先に挙げたストーブの例で言えば、「ストーブは熱い」ということと「触って熱かった」ということは記憶出来ても、その前後の記憶とその対象の記憶を「関連させて記憶する」ことが出来ないのです。所謂「学習能力」とも言えるでしょう。(注※迷路の中にいるねずみが漠然と道を記憶していたり、パブロフの犬現象などは本能に随するものであり、いわゆる「感覚魂」や「悟性魂」の働きです。ここで言う学習能力には含みません。)
 さらに言えば、アストラル体というのは「快・不快」が支配する領域であるともされ、幼児期に子供が「快・不快」をもっぱら表現するのも、この「アストラル体の成長期だから」とされています。
 そうなると、アストラル体のメインの働きは、感覚から生じた経験と、それに対する快・不快がメインであり、それらの経験をストックする場所――と言うことも出来るでしょう。

 それに反して、自我は先程も言いましたように「個である私」であり、背後の霊界と通じている箇所でもあります。
 もし仮に、ここでいう自我が霊界や霊性などを「持っていない」のだとしたら、人は「外界から受けた印象だけ」で生きていくことになり、閃きも直観も、まったく「起こり得ない」ということになってしまいます。
 自我は、アストラル体の低次部分である「感覚魂」や「悟性魂」を通じて得た体験を「意識魂」で濾過した記憶と常に向き合っています。意識魂が高ければ高い程、自我との差は生じなくなり、自我によるアストラル体のコントロールというのもさほど難易度は高くないことでしょう。
 しかし、子供の成長期間を超えた後でも「快・不快」だけに囚われている場合、自我とアストラル体の溝は深まってしまいます。その分、人間性全体を通しての成熟は遅れをとることとなるでしょう。
 思考がよく「あちこち飛び」まくったり、夢が「何の脈絡もなく切り替わったり」などというのは、アストラル体の作用です。自我というのは、それに対して規則性や法則性を見出します。なので、自我が発達している人というのは、行動や言動に主旨一貫している側面が強く、アストラル体の方が発達して自我が追いついてない場合には、思いつきの行動が多かったり、好き嫌いが激しい、などといった傾向が強く表れることでしょう。
 アストラル体と自我の差を明確に示そうとするならば、アストラル体は「快・不快の表現や、感覚による反応や行動」というのに対し、自我は「感情から生じるいっさいを、統括せしめんとする働き」とまとめることが出来ます。

◆人間を人間たらしめるものは?◆

 三回に渡って霊学的に人間を考察してみました。
 とはいえ、霊学的な「人間の定義」というのは一括りで表現出来るものではなく、あらゆる要素や要因が絡まりあった複雑な存在とも言えます。その為、今回説明した「肉体・エーテル体・アストラル体・自我」だけですべてを包含することは出来ません。しかし、様々な外的要素――眠りや、死、霊界、民族、人種、社会についてなど――を経ることで、さらなる深みにまで考察が行き着けるのではないかと、そんなふうに思っています。

 ちなみに、前回脇に措いておいた「人間を人間たらしめるもの」という問いの答えですが――それは「肉体・エーテル体・アストラル体・自我」の四元素がすべて作用しあった状態であり、かつ、外界による影響をも含んだ状態である、そう言えるでしょう。
 霊学を学べば学ぶほど、人間が「個として存在するのではなく、常に外界や周囲の人と連動しあって生かされているのだ」ということを、実感せずにいられません。

 
参考文献「神秘学概論 訳者・高橋巌 ちくま学芸文庫」 
      「神智学 訳者・高橋巌 ちくま学芸文庫」