2017年1月22日掲載

- 2025年問題 - 超高齢社会について考える(2)

あまりにレベルが低い高齢者サービス


 筆者は在宅型の有料老人ホームに看護師として勤務しています。訪問看護師として在宅で生活する方々の支援もしてきた為、同じように老年期を生きる人達の生活の質を維持していきたいという思いから就職したのですが、現状は「それ以前のレベル」でした。

 デイサービスなどのイベントで、高齢者の方々にお面をつけたりボール遊びをしたり、また、自分達の大先輩にあたる高齢者の肩に向かって「○○ちゃん」とちゃん付けしている光景を見かける方も多いのではないでしょうか?
 中には「ちゃん付けされた方が、親近感があって嬉しい」という方もいらっしゃるかもしれませんが、私はやはり、高齢者の方は「私達が知らない時代を生き、その中で切磋琢磨しながら人生を卒業しようとしている大先輩なのだ」という思いがあるので、とてもではないですが「ちゃん付け」では呼べません。(名字ではなく、名前で○○さんと呼ぶことはあります。)

 私が勤めるホームの中には、長年英語教師を務めてきたという素晴らしい方もいます。それまでは「先生」と崇められていたにも関わらず、今はまるで「何も出来ない子供」のようになってしまった自分をなかなか受けとめられずにいるようです。高齢者の中には「今までは出来ていたことが出来なくなってしまった」ということに、思いの外衝撃を受けていたり、心に傷を持っている方も少なくないのです。そうした視点に立った上で、私達は高齢者サービスを展開していくべきではないでしょうか?

ですが、残念ながら既存のヘルパー教育の中ではこうした「高齢者サービスの真髄」や「老年介護」について、指導もされていなければ教育もされていません。
 介護は、「誰もが出来る仕事ではない」のです。その現状を、行政はもっと理解すべきだと私は声を大にして言いたいです。

高齢者は何を望むのか


 この光景は多くの老人ホームに見られる光景かもしれませんが…入居者の多くが、何もすることなく、レストランのテーブルに俯せているか、カラオケに合わせて歌っているだけのことが多いです。
 自らの卒業式(寿命)を前に、精神的な探索や人生を振り返るということもありません。
 私はこうした光景を見るにつれ、「このまま、この方々を天国にお送りしてしまったら、私はバチが当たるのではないか」と思うことがままあります。

 何故、私達に「寿命」があるのでしょうか?
 何故、私達に「生死」があるのでしょうか?
 それは、生きている間、人生の中で「様々なことを学び、魂を研鑽させ、生まれてきた時よりも様々な経験をすることが目的だから」なのではないでしょうか?

 しかし、そうした行為を「認知症」という症状が阻んでしまっています。
 認知症は、もしかしたら「こころの病気なのではないか?」私はそんなふうに思うことがあります。
 例えば、いつでもどこでも「自分の生まれた意味」「生まれてきた時代」そうしたことを考えている人は、なかなか認知症にならないのではないか──そんなふうにも思えるのです。

 高齢社会のピークは、「2050年」と言われています。
 その時代は、私もご多分に漏れず「立派に高齢者(80歳)」です。
 ただ、今の高齢社会を見ていると、「こんな状態で年を取りたくない」と強く思います。少なくとも、私は今のような老人ホームに入るぐらいなら、独居による孤独死を選ぶでしょう。(その時代には、心臓が止まったら警備会社が即駆けつけてくれるような設備が万全となっているでしょうし。)

 現代の高齢社会の問題は、確かに「国がギリギリになるまで高齢社会となることを見通せなかった」という問題もありますが、それ以前に、「自分達がどのような高齢者になりたいのか」というヴィジョンを持つような社会の風習もなかったことにも原因があるように思います。
 高度経済成長やバブル期の時代は、何も考えずに生きていてもさほど問題はなかったかもしれません。しかし、これからの社会において私達は自分達がどんな高齢者になりたいのかを明確にイメージングしていく必要性があり、どんな高齢社会が望ましいのかをヴィジョンとして打ち出す必要性があると言えるでしょう。

もう、国をあてには出来ないのです。